第三章 卒業と就職
1 卒業
めまぐるしくカレンダーの日付は変わり、卒業式に卒業生代表で答辞を述べる 事になったナンシー。
仲間や父母の意見を取り入れ、優等生的な答辞を準備した。一方、オリンピッ クでメダルを取っていい気になっていると言う周りの声も聞こえて来 た。
そこで、一大決心。答辞の原稿をそのままでは読まず、アドリブで済まそうと 決めた。
在校生の送辞があった。
「それでは、送辞に代えて、ある詩を朗読します。
みなさん
世界は、貧しく飢えているから、パンを携えて行きなさい。
世界は、恐れにあえいでいるから、勇気をもって行きなさい。
世界は、絶望に打ちひしがれているから、希望を忘れずに行きなさい。
世界は、偽って生きようとしているから、真実を求めて行きなさい。
世界は、悲しみに病んでいるから、喜びのうちに行きなさい。
世界は、戦いに疲れ果てているから、平和をもたらすように行きなさい。
世界は、フェアーではないのだから、正義をかかげて行きなさい。
世界は、裁きに押しつぶされているのだから、
憐れみとゆるしを願いながら行きなさい。
世界は、愛なしには死に絶えてしまうだろう、だから、
あなたは愛をもって行きなさい。
以上
二年四組 マリア・アダムス・ジョーダン」
「答辞、ミス・ナンシー・ホールズ」
「答辞」とナンシーは一度原稿を広げた。それからその原稿をくしゃくしゃ、 と丸めて仕舞った。
「世界は、貧しく飢えているからパンを。しかし人はパンのみにて生きるにあ らず。
世界は、恐れにあえいでいるから、勇気を。しかし人は勇気を他人に持たせる 事はできません。
世界は、絶望に打ちひしがれているから、希望を。絶望に打ちひしがれている 人に必要なのはパンであり勇気です。
我々ロスアンジェルス高等学校三年生八十五人は、勇気と愛を持って、絶望と 恐れにあえぐ貧しい世界に船出します。
さあ、鳩よ、愛を持って世界中のどこへでも飛んで行け!
私の貧しい足に代わり、希望を携えオリーブの葉をくわえて、全世界の勇気と なるべく飛んで行きなさい!
元三年二組卒業生代表・ナンシー・ホールズ」
そう言って振り返ると、全校生から割れんばかりの拍手があった。
ナンシーはしばらくぶりに涙を流した。一緒に卒業するエリザベスと抱きあった。
「エリザベス、ありがとう。プラチナメダルの中心人物ってエリザベスでしょ?」
「えへ、わかった?表彰式が終わるとすぐ皆に電話掛けまくったのよ」
最初は反目していた二人だが、今になると切っても切れない親友であった。
「あなたがいなければ、ホルンも手に入らなかったし、オリンピックでのあだ 名もなかったと思うわ。そして『プラチナメダル』もね」
「ナンシー、来週警察の面接よね。それから筆記試験でしょ。がんばってね」
「ええ。エリザベスは、大学入試がんばってね」
「私も来週面接なんでーす」
「お互い、がんばんなきゃ!エイエイオー!」
そんなこんなですぐに面接試験が来た。
「二十七番、ミス・ナンシー・ホールズ」と呼ばれたので部屋に入って行った。
「ナンシー・ホールズです」
「座りたまえ」
「履歴書を見るまでもない、我々がよく知るナンシー・ホールズさんだ」
「???」
「ソウルオリンピックの銀メダリスト、ホルン奏者にしてバルセロナオリン ピックの金メダル有力者だ」
「そうです・・・けど。何か?」
「我々の仕事と言うのは、隠密でやらなければならない事も多いのでね。あな たのように全世界的に顔を知られていると、まずい事も起こりうるのだ よ」
「そうですか、でも」
「あなたが尾行や張り込みをしたとしよう、すぐにばれてしまう」
「そうですね、やっぱりこの仕事向かないのね、帰ります」と席を立とうとした。
「まあ、待ちなさい。座って。でもね、警察と言うのはただの尾行や張り込 み、捜査だけではない。『顔』が必要な時もあるのさ」
「顔?」
「トップだよ。あなたは尾行や張り込みなどする必要はない、それは末端の人 間に任せて、『顔』になるんだ」
「じゃあ、採用してくれるんですか?」
「発表まで待ってもらおうか。その前に、ホルン演奏以外にもう一つ特技があ るんだって?」
「ワタシ、ニホンゴ、ペラペラデス」
そう言うと二人の試験官は顔を見合わせた。一人の試験官はもう一人の試験官 の耳元でそっと囁いた。するともう一人は「それはいける!」と言っ て、その 後口を塞いだ。
「と言うと、それは特技ではなく生まれの関係ですね。日本人と日本語で完璧 に話せる自信はありますか?」
「ダイジョウブ、ジシンハアリマス。実際に母は日本人だけど、母とは日本語 でずっと話しているし、それに私日本人の名前も持っているんです」
「と言うと」
「菅原美枝子。こんな字を書くんです」
「ああ、日本の漢字か。私自慢じゃないが全然わからないんです」
「彼氏、いるのかね?」
「いません!」彼女は顔を真っ赤にして怒った。
そんな面接の様子を夜父母に話していると
「そりゃあもう大丈夫だ、もうトップとして受け入れようと言う事じゃない か」と父が言う。
「私もそう思うよ、美枝子。青いシグナルが煌々と照っているって感じね」母 もそう言うので、安心していた。
発表の日、朝から警察の射撃場で射撃の練習をしていると、電話が鳴って店の 人が出て、しばらくして肩を叩かれた。
「お母様からよ」
電話の所に行くと
「ナンシー?フミコよ、あなた宛に手紙が来てるわ、ICPO から」
開けていいわよ、とも言えず、そそくさと片づけて自宅へ地下鉄に乗って急いだ。
自宅に着くと満面の笑みで母が迎えてくれた。
「私も一緒に手紙見ていい?」と言ってその手紙をナンシーに渡した。
さっそく封を開け、中を改めた。母が内容を知りたがったので、声を出して読 んだ。
『親愛なるミス・ナンシー・ホールズ
この度は警察官採用試験を受験され見事に合格された事をここに記す。おめで とう』そこで母を見ると、母は「よかったね」と一言だけナンシーに 言った。
『さて、実際に警察官に採用されるためには警察学校に通ってもらう必要があ る。ここでは射撃の練習や−君には必要ないな−武器の扱い、などを学 び、実際 の捜査や検挙に役立ててもらう。その期間が十ヶ月間。そして、君にはさらに 一ヶ月間、ICPO について学んでもらう。実際に何を学ぶかはその時教えよう。 でも、これだけは言っておく、ICPO の日本支部、日本の警視庁にそれは置かれ ているのだが、そこに君は行く事になる。』
「行く事になる、って一週間位かなあ、ねえ母さん」
「そんな事私に聞かれたってわからないよ」
『○月○日 ICPO 最高責任者 フロイド・スミス』
そして小さく手書きで『お父さんのマーティンによろしく』と書かれていた。
「どれ、どれ、もう一度見せておくれ」
その他、警察学校に入る際に必要な物とか、警察学校の概要が書いてあった。 母は再びしげしげと手紙を読み、同封されていた書類に目を通した。
「お父さんが喜ぶわ」母はそう言って書類をしまった。
ナンシーは自分の部屋に行ってベッドに寝ころぶと、しばらく物思いにふけっ た。大体は今回のオリンピックの事だった。
またメダルの事を思い出し、机の引き出しにしまってある友情のメダルをまた 引っ張り出して見つめた。
『フランソワーズ・・・今ごろ何してるかな』
それからナンシーは少し眠ったようだ。目が覚めたのは父が帰って来て、母が 例の手紙を父に見せていた時、母がナンシーを呼んだためだった。
「フロイド・スミスは今 ICPO の最高責任者をしているのか。頭の切れる奴 だったからなあ。」マーティンはそう呟いた。「ナンシー、今頃寝ていると夜寝 られなくなるぞ」彼女は眠そうな顔 をしていた。
「ともかく、合格祝いだ、母さんごちそうを。わたしはビールを買ってくる」
2 警察学校
一人警察学校の寮に行く時、また忘れてならない三つのアイテムがあった。プ ラチナメダル、友情のメダル、そしてホルンであった。警察学校と言う からに は学校のブラスバンド部もあるのだろうか?メダル類は自宅の父母に預けておいた 方がいいのだろうか?色々な事を考え迷ったあげく、このアイテ ム類は自宅に 置いておく事にした。
寮の舎監に、寮で管楽器をやってもかまわないか聞いた所、周りの住人から苦 情が来なければ構わないと言われた。寮は一人一人の個室だったので防 音はそ れほど神経質になる必要もないかもしれない。常に地味な基礎練習が主なので 却って気に障るかもしれないが、苦情が来たなら来た時の話だ。ま ずは伸び伸 びと羽根を伸ばそう。ホルンは次の週末が来たら自宅に帰って持って来よう。そ う思い、読んでいるニーチェの「ツァラトゥストラ」に栞を 挟めて枕元に置い た。睡眠は比較的容易に訪れる。
次の週、持って来たホルンの手入れをしているとナンシーの扉にノックの音が する。
「やあ、ナンシー・ホールズ!」
「またミーハーの方?ミルクで顔洗って出直して」
扉を閉めようとすると
「そう邪険にしないでくれよ、これを見てくれ」
彼は足下に置いた楽器のケースを示した。
「もしかしてアルト・サックス?」
「その通り!」
彼はそう返事するとケースを開け、中身を見せた。
「僕の下調べではこの学校に吹奏楽部はない、と言うより部活動自体がほとんどない」
「そう・・・みたいね」
「君はホルン以外にトランペットが出来る、僕はサックス以外にフルートが出 来る」
「と言うことは?」
「君が金管の部長、僕が木管の長をやって、じゃじゃーん、吹奏楽部を立ち上 げましょう!」
「ここで予感。もう一言あるんでしょう?」
「僕の下調べでは、金管楽器の経験ある人が五人、木管が六人いるのです。」
「それで?」
「楽器を持っている人がトランペットが二人、トロンボーンが一人、サックス が僕以外に一人。フルートとクラリネットが各一人。・・・まあ全員が 参加す るとは限らないけどね。」
「それじゃあ、あとやる事は?あれしかないね?」
二人はすぐに実行に移った。片づいている方の部屋で、ポスターを書き始めた。
「念のために聞くけど、ナンシー・ホールズさんがこの為に人寄せパンダにな るって覚悟はある?」
「勘弁、勘弁」
「じゃあ、こう書くか?例のあの人がすぐそばに」
「それもだめよ、ヘンリー。」彼の名前はヘンリー・スチュワートと言うの だった。
「お問い合わせ・申し込みは二〇八号・ヘンリーまで」
それからほぼ一週間経ち、申し込みの具合はどうかヘンリーに会った時聞こう と思ってもなかなか会わない。二〇八号に行くと留守。仕方なく部屋で 愛読書 「ツァラトゥストラ」を読んでいると一〇時になる所だった。
ベッドに入り目を閉じているとさまざまな思いが錯綜したものの、睡眠は比較 的容易に訪れた。
次の日教室で友達と話しているとヘンリーがやってきて、会議室に来て欲しい という。
すぐそこに行きドアを開けると、その瞬間全員で「聖者の行進」の演奏を始め た。数えると七人ほどいた。トランペットが二人、トロンボーンが一 人、サッ クスが二人。フルートとクラリネットが各一人。
「小学校の時トランペットをやっていたり、中学校の時サックスをやっていた りした連中の寄せ集めだけど、少し練習したらこの程度は出来るみた い」ヘン リーが言った。
「僕はずっとクラリネットをやっていました」
「あなたは?」
「ジョン・ナカムラと申します。あなたと同じ日本人とのハーフです」
「私、エミー・ホイットマン。フルートは中学校の時からずっとやってます」
その他、トランペットのジョエル・ギブソン、同じくトランペットのソ フィー・アメリオ、トロンボーンのダニエル・オブライエン、サックスのウイ リアム・コットンとキャシー・クック。
一遍に自己紹介されたので、ナンシーは覚え切れなかった。それからというも の、また楽器の練習の日々が始まった。しかしこの学校のレベルはそう 高くな く、楽しんで練習が出来たのでこれはこれで楽しい経験だった。
全員が揃っての練習と言うのはなかなかできなかったが、それぞれの楽器の音 色を楽しみつつの練習が出来、ナンシーもホルンと各自の音色を合わせ ての練 習を楽しみ、時が過ぎた。
そのうち上級生の卒業式(歓送会)に何の曲をやるか、と言う話になって、す ぐに「亡き王女のためのパヴァーヌ」とショパンの「別れの曲」をやる 事に決 まって、すぐその練習が始まったが、誰か指導をして貰える先生がいないか探し たのだが、この警察学校には音楽の授業はなく、当然指導の出来 る先生もな く、仕方なくナンシーが指導する事になった。すると、不思議な事に気づいた。
自分の吹くホルンはF管で、楽器自身の「ド」を出すと「ファ(F)」と知っ ていたが、例えばアルト・サックスの調子は「Eb(ミのフラッ ト)」、テ ナーサックスやクラリネットの調子は「Bb(シのフラット)、そして自分がか つてやっていたトランペットはやはり「Bb」だった。それ で全員が合わせる 時、どこの吹奏楽部でもやると思うが絶対音で「A(ラ)」で合わせるのだが、 自分自身の楽器は「E(ミ)」を出せばいいと分かっ たが、その他の楽器はす ぐにはわからなかった。その内メモ帳にこっそりどれは何の音、と記録しておい たが、すぐに暗記した。アルト・サックスは 「ファの#(F#)」、テナー・ サックスやクラリネット、トランペットは「シ(B)」を出すと「ラ」の音が出 る。何故「C」の管が少ないのか疑問 だったが、皆に聞いても誰も分からな かった。フルートの調子は「C」で楽だったので、そんな事を考えたのだが。
警察学校の歓送会で部のお披露目を行った後はナンシーたちへの悪辣なまでの 試験の日々が続き、短い春休みの後はナンシーたちは2年生・上級生と なっ た。退屈な講義が続き、講義の後いつもの連中との練習、そして新入生が部に 入って来て、長い夏休みを前に母のフミコが『最後かもしれないから 一緒に旅 行をしないか』と誘って来たがもうすぐ二〇歳になろうというのに娘が親と旅行 でもないだろう、と断った。その夏休みは近くのハンバーガー ショップにバイ トに明け暮れた。バイトの無い日は警察学校で射撃の練習、または楽器の練習 だった。
涼しくなり授業が始まると、各警察での実習もあった。ナンシー・ホールズの 名前を知っている警官からは実際の射撃の腕前を披露してくれと言うリ クエス トもあったが、やんわり断る事もあったが警察署長の要請があれば、一〇発程中 央着弾を披露する事もあった。
そんなこんなで学校に帰ると楽器の練習、またつまらない講義が続いた。そん な日々で、自分の部屋に帰ると友情のメダルを取り出しフランソワーズ との友 情を思い出した。
フランス語を自分で勉強してみたが文法や発音が難しく、すぐに挫折したが、 挨拶程度は出来るようになった。
夏の過酷な日差しが終わると卒業式の日が近づいた。歓送会でラヴェルの 「ヴォカリーズ」と「双頭の鷲の旗のもとに」を演奏する事に決めるとその 頃 学校から答辞をしてくれないかと内示があった。最初やんわりと断ったが校長か ら何としてもしてくれと
再び要請があり、引き受けた。高校の時の焼き直しだと笑われるかもしれないの で、ちょっとした原稿を書く事にしたので、またするべき事が増えた。
歓送 会で吹奏楽部の演奏を終えると、万雷の拍手が起こり、最後はナンシーの答辞の 番だった。
「みなさんは尊敬する事と愛する事は違う、とご存知でしょうか?私は、父を 非常に尊敬しています。勿論、愛してもいます。いつかテレビでインタ ビュー された時、父のように尊敬する人と結婚するのか、と聞かれ尊敬と愛は違う、と 答えました。
私も女性であるからにはいつか愛する男性を見つけ、結婚したいと思っていま す。でも、尊敬できない、軽蔑すべき男性とは死んでも結婚したくあり ません。
父は、私が警察方面の仕事を望んでいると知って、激励してくれました。皆さ んご存知のように私はメダリストですので、望めばもっと有利な就職が あった かもしれないのに、です。
でも、私はこの方面の仕事に就きたい、進んで良かったと思います。たくさん の仲間と出会えました。皆さんとはずっと友人でいたい、心より思いま す!
一九九〇年九月一二日、カリフォルニア警察学校二年 ナンシー・ホールズ」
拍手、拍手であった。
次の週からナンシーたちへのICPO についての退屈な講義が続き、簡単なテス トがあった。
そして一九九〇年十一月上旬、二〇歳のナンシーは日本へと旅立った。