第二章 過去
1 生誕
ナンシー・ホールズは一九七〇年一〇月三日、ロスアンジェルスで生まれた。
物心が付き周りの事がだんだん分かってくると、自分が住んでいる場所が「ロ スアンジェルス」と言う都市であり、父はマーティン、母はフミコと言 う名前 だと知った。でも父母の名前を知ったのは六歳の頃で、もっと幼い頃は他の子供 の父母には名前が付いているが、自分の母には名前がないと思い 込んでいた。 ただ『お母さん』と言う名前だと思い込んでいた。父が『マーティン』と言う名 前だと言うのは比較的早く知った。
自分が『ナンシー』と言う名前なのは三歳の頃知った。父母が毎日のように自 分をそう呼び、呼ばれると返事をした。自分の母に、他の母と同じよう に名前 が付いている事に違和感を覚えた。母は『お母さん』と言う名前でいて欲しかっ た。しかし母が自宅で家事をしていて父を『マーティン』と呼ぶ のは当然と感 じていたし、ナンシーも父を『マーティン』と呼んだ。しかし母の事をフミコと 呼んだのはよほど大きくなってからの事だし、多くの子供 にとって母は名前の ない存在であろう。
ちょうど母に名前があると知った頃、自分にはナンシー・ホールズと言う名前 以外に日本の名前、すなわち菅原美枝子と言う名前を持っていると知っ た。
多くの子供にとってそうであるように、小さな頃は自分一人での外出を許され ない。美枝子が自分一人での外出を許されると、近くの公園でのびのび と遊ん だ。小学校に上がる頃公園は学校となり、友人が沢山出来た。
近くの公園や学校で遊んでいると、よく走り回った。両手を広げると空気があ り、空間があった。両手を広げたまま走ると『風』を感じた。両親に、 よく何 故風を感じるのかと尋ねた。その度に答えははぐらかされ、いいかげんな答えを された。しかし教師にそれを聞くと、空気があるから風を感じる のだし、空気 がなければ自分たちは生きて行けないと教えられた。
また、自分たちのまわりにある空気を辿って行くといつしか空気はなくなり、 宇宙と呼ばれる広い所に通じるのだと教えられた。
そこで宇宙はどこにあるのか、と教師に尋ねたら教師は
「こういう事を言っても今の君にはわからないかもしれないけど、宇宙自体が 存在であり存在が宇宙なのだよ。宇宙にはその外もなければ、限りもな いんだ よ。聖書では神が宇宙を創った事になっているが、それではその神はどこにいた のか、いつからいたのか、どうやって生まれたかなどの疑問が残 るんだ。一方 宇宙の存在論を根本から変える理論が超ひも理論だ。これは宇宙は元々十次元 で、誕生の時その内六次元が脱落するか非常に小さくなっ て、現在の四次元空 間となったとする理論なんだ。四次元空間とは、縦・横・高さの三つの大きさ と、時間を四つめの大きさと考えるんだ。・・・難し いかな?」と答えた。当 時のナンシーには難しかったが、今では何となく分かる気がする。少なくともこ の宇宙は神が創ったのでもないし、また自分が 創ったのでもない。空間は実際 にあり、物体は触る事や見る事によってその存在が確認できる。高校時代いくつ かの哲学書を読みまた物理の講義も受け た。それで得たものは、いくら疑って も、また否定しても、事実は事実として存在し、また疑う事が実際の生活の役に 立つとは限らないのだ、と言う事 である。
事実を事実として受け止め、神の存在を必ずしも必要としない思想がニーチェ だった。高校時代ナンシーはニーチェに没頭し、「ツァラトゥストラ」 などに 深い感銘を受けた。
そこで語られた超人思想、永劫回帰、神の死などは当時キリスト教に疑問を抱 いていたナンシーにある一定の立場を与えた。
少し話を戻そう。四歳くらいになり独立して食事を取れるようになると、色々 な不満が出てくる物だ。それは要するに「食事のメニューがお母さんた ちと同 じでない」に帰結する。例えば肉のステーキの替わりに子供には肉のミンチが与 えられるのだが、「肉のステーキが食べて見たい!」と子供は要 求する。「も う少し大きくなったらね」と言っても、「今日食べたい!」である。
そんな時母の芙美子はこう言って諭した。「ナンシー、あなたはね、生まれて きた時は三キロ程しかない、一抱え出来るほどの大きさしかなかった の。生ま れたばかりでも肉のステーキ、食べれると思う?歯もないのよ。食事はね、私の 『母乳』なの。女の人のおっぱいは形が良くて、男性の観賞に 役立ったりする けど、最も大きな目的は子供に母乳を与える為の物なの。『母乳』はね、見た目 は牛乳とだいたい同じで、私も少し飲んで見た事がある けどちょっと甘いの。 『母乳』はね、赤ちゃんが大きくなる上で最も重要な栄養なの。まあ、今は粉ミ ルクもあるけど、ともかくね、子供は大きくなる 為にその時その時で必要な食 べ物が違うの。ナンシー、まだ小さいナンシー、だからわがまま言わないで、小 さい子供用の食事を取って。肉のミンチ食 べてね。」
「うん、ナンシーみんち食べる!」
父のマーティンは食事中金色の液体をちびちび飲んでいた。小学校に上がる頃 になると父の飲み残しのウイスキーやブランデーを失敬して飲むように なった。
ちょうど七歳になった頃鼓笛隊でトランペットを始めた。放課後一時間くらい 練習を続けた。その内バックのトランペットを買ってもらった。嬉しく て自宅 で練習していると父が部屋に入って来て「少し音が大きいかも知れないね。今度 ミュートを買ってあげる」と言った。「そうだ、ナンシー、ドラ イブに行かな いかい」
そう言って父がドライブに誘ったのでナンシーはトランペットを片づけてドラ イブに出かけた。
しばらく車に乗ると、着いたのはリーボの銃砲店だった。父は車を降り、別棟 の射撃場へと向かった。父は警察官をしていたので当然ながら顔なじみ だっ た。「リーボ、この子にコルト二十二と空砲二十発を。・・・もう射撃に慣れて もいい年頃だと思ったのでね。まず射撃の反動に慣れて行く」
そして父は足を肩幅に開く事、息を吐きながら拳銃の引き金を引く事、引き金 を引く時は決して目を閉じない事、そして決してしてはならない事をも う一つ 教えてくれた。つまり自分が死の瀬戸際に追い込まれない限り銃口を人に向けて はならないと。
そして、ナンシーは初めて拳銃の引き金を引いた・・・空砲ではあったが。
それからと言う物、学校では鼓笛隊のトランペットの練習、土曜日は射撃の練 習が続いた。呼吸法に関して言えばトランペットも射撃も相通じる物が あった ので、まったく別の物をしていると言う意識はなかった。
そうして数年が経つうち、射撃の腕前はどんどん上がって行った。
その頃中学校(ミドルスクール)に上がった。入学時の自己紹介で小学校の時 鼓笛隊でトランペットをやっていたと言ったところ、ブラスバンド部の 部員か ら猛烈な入部勧誘があった。
否も応もなく、トランペットは好きだったので入部した。すると、トランペッ ト部員は比較的多いのでホルンをやらないかと言われた。ホルンはナン シーを 入れれば三人だった。何となくしり込みしていると、部長先生が「それならこう しよう。ここに普通のダブル・ホルンがある。何も指を押さえな い状態で、 ド・ミ・ソが出る仕掛けになっているんだが、もし君が出せなかったらトラン ペットにしよう。ちょっとレイノルズ君、やってみたまえ」
彼はホルンでド・ミ・ソ・ミ・ドと音を出した。
ナンシーは、そのホルンを構えると音を出した。最初は安定しなかったが、す ぐドの音が出せた。少し息の感じを変えるとミになった。ソもすぐ出 た。それ で、ド・ミ・ソ・ミ・ドを演奏した。近くの譜面立てにホルンの運指表があるの を目ざとく見つけたナンシーは、「聖者の行進」を演奏した。
「すごい!素晴らしい!初めてホルンに触ったんだよね、それで聖者の行進? すごいじゃないか!」ブラスバンドの部長先生、すなわち音楽の先生は そう 言って感激した。
「私、ホルンの音好きになりそうです」
そしてナンシーとホルンの長い付き合いが始まった。
その頃、ナンシーの射撃もある程度その腕前を上げつつあった。十回の射撃の 内一回位は的の中央に命中するようになったが、それ以上はまぐれで 二、三回 命中するだけだった。
ミドルスクール最終学年(第八学年)の時父はある決断をした。今まではずっ とオートマチックのピストルだったが、三十八口径のリボルバーの拳銃 に換え ようと父はナンシーに告げた。しかしそれには母が反対した。女性はせいぜい三 十二口径で、しかも弾数が多いオートマチックを持つべきだと主 張した。しか し父は、自分の勤める警察でも女性警察官がスミス・アンド・ウエッソンのリボ ルバーを使っていると。しかもマーティンの知っている女 性警察官のメアリー は四十四口径の物を使っていると。母は妥協して、三十八口径のスミス・アン ド・ウエッソンM六十五にした。警察だし、どんな銃 器でも転がっていた。手 になじむとわかると父は新しい拳銃を買った。
そうやって高校の入学を前にして、射撃の腕を磨いていると、十発の内平均で 五、六発が的の中央に命中するようになった。
高校の入学式を済ませた後ブラスバンド部でホルンを志望すると、それまで以 上の仮借ない練習の日々が待っていた。九月に入学したのだが、一月に 大会が あると言う。しかも曲はラフマニノフの「ヴォカリーズ」で、出だしの所にホル ンの主旋律がある。何度も聞いた曲だが、さすがに難しかった。
「ナンシー君、君のホルンは最高だよ。君のためにヴォカリーズの出だしをホ ルン用に編曲したんだから」とブラスバンド部の担当教師は言った。
練習を繰り返し、一月の大会で準優勝に輝き、大会を聞きに来ていたニュー ヨークフィルのホルン奏者がロビーで声を掛けてきた。
「フランスかどこかの音楽大学でもっと腕を磨けば僕を抜けるよ」
「私・・・ホルンはただの趣味なんです。尊敬する父を見習って警察の仕事に 就こうかと思っています。実は、小学校に上がる頃から射撃の練習をし ている んです」
「警察の仕事、ですか。うーん、それもまた道かなあ。お父さんはどこの警察で」
「ロスの警察です。最近は ICPO の仕事が多くて飛び回ってます。家に全然い なくて」
「そりゃ寂しいね。それじゃ何かい、結婚するならやっぱりお父さんみたいな 男性?」
「尊敬する事と愛する事は違うんだってこの頃思います。私の事を必要として くれる人、私がその人を必要とする人、一緒にいて飽きない人がいいか なあ。 わからないです。」
「お金が出来たら、アレキサンダーの一〇三を買うといいよ」
「ああ、アレキサンダーですね、いい音がするって聞きました。すごく欲しい です!」
「私はホルトンを使っているんだけどね」
「あなたよりいい音が出たらどうしましょうか?」二人はそこで笑い合った。