3 オリンピック


 そしてソウルでのオリンピックが開幕した。女子でホルンを持っている射撃の 選手と言えば誰でもナンシーの事とわかった。

 リクエストでいつでも気軽に演奏を披露した。それは微笑ましい話題として ニュースなどで流れ、「ホルンを持った射撃手」などと命名された。

 そして射撃種目の日が明けた。くじで試技順を決めたのだが、何とラッキーナ ンバーの「三」を引いた。

 「こんにちは、ナンシー、フランソワーズ・マヨールです。ファイナルに残れ るようがんばろうね」

 「私は六〇〇点取るけど、フランソワーズはまた六〇〇点取るの?」

 「私、オリンピックは二回目だけど舐めていると痛い目に遭うわよ」

 「舐めてなんかいないわ!必ずやるわ。」

 フランソワーズとナンシーはそんな会話を交わし、少し年上のフランソワーズ をナンシーは姉のように思い、前のオリンピックでのエピソードを語る フラン ソワーズに耳を傾けた。

 「それでね、私は五百八十五点以上取れればファイナルに残れる所だったのだ けど、外したわ。それから警察に勤めた私は、毎日その屈辱を思い出 し、射撃 練習に明け暮れたのよ」

 「それで、今まで無名の選手?」

 「ミス・オールズ、じゃないホールズ、いくら何でも失礼よ」

 「ナンシーで結構よ」

 「じゃあ私はフランソワーズで」

 「ミス・ウランソワーズ、お互い頑張りましょう」

 「ミス・ウランソワーズ?何それ?聞いた事ないわ」

 二人は声を立てて笑った。まるでお互いに競い合っている選手同士だとは思え なかった。フランソワーズは五番目の試技だという事だった。

 いつものようにポケットからホルンのマウスピースを取り出して集中している と、フランソワーズが

 「何?楽器の何か?」と聞いてくるので

 「私のあだ名知らない?ホルンを持った射撃手って言うの。今日は予選だから さすがにホルンは持ってこなかったけど、いつもこうやって集中するん だ。射 撃も楽器も呼吸が重要でしょ。それにマウスピースだけでもドレミファソラシド 出せるのよ」

 そう言うとナンシーは音階をマウスピースだけで出して見せた。

 「さすがに曲は無理っぽいかも」

 「ああ、選手村で時々聞こえる曲はあなたのホルン?」

 「ピンポーン・・・そうだ、今夜、何か演奏しようか?聞きに来て。フランソ ワーズ、何号室?」

 フランソワーズは自分の部屋の番号を教えた。

 「じゃあ、夕食が終わって・・・あ、もう二番目の試技者だわ、スタンバイし なきゃ。じゃあ、フランソワーズ。」

 それからナンシーは二番目の試技者の射撃に集中した。彼女は五百五十四点の 点数を叩き出した。

 『三番、ナンシー・ホールズさん、アメリカ合衆国』

 さあ出番だわ、頭の中ではワグナーの『ワルキューレの騎行』が鳴り響いていた。

 ピストルの準備をして、的に向かい、何度か深呼吸すると頭の中はしんとなった。

 「自分に嘘は吐かない!全力で向かうのよ!」

 第一セットは気負わずに全て中央着弾。第二セットから第六セットまで手を抜 かず中央着弾。自分では六〇〇点満点の試技のつもりだった。

 「只今のナンシー・ホールズさんの記録、五百九十九点」

 審判員から説明があり、第二セットの三発目が中央からわずかにズレた所に着 弾したという。

 次のナイジェリアの女性は五百四十二点。

 そしてフランソワーズ・マヨールの試技の順番となった。これは完璧な試技 で、何と六〇〇点を叩き出した。

 この日の試技の結果、二日後の決勝には八人が進み最終試技者フランソワー ズ、その前がナンシーと決まった。


 4 選手村の休息


 「何かリクエストある、フランソワーズ」ナンシーが膝にホルンを抱いて聞いた。

 「じゃあ、何か元気の出るような曲を」

 「こういうのじゃいかが?」ナンシーは『双頭の鷲の旗の下に』のさわりを演 奏した。

 演奏が終わると皮肉たっぷりな笑顔でフランソワーズを見たナンシーは、拍手 を惜しまない全員の笑顔に気圧された。

 「これってアメリカの歌じゃないの?」

 するとフランソワーズは

 「ふふ、これは元々ワーグナーの作曲で、オーストリアのハプスブルグ家を讃 えた曲なのよ。どちらかと言うとヨーロッパ大陸的な曲ね。じゃ、『新 世界よ り』なんてリクエストするわ。」

 ナンシーは、自分の嫌みさ加減に嫌気が差した。そのせいで『新世界より』は 音がひっくり返ったりした。

 言うまでもないが、ドボルザークはヨーロッパ大陸から追われるように新世 界・アメリカへと渡り、この名曲を産んだのだった。この曲の他にも、ド ボル ザークはアメリカ土着の曲から着想を得て数多くの名曲を残している。

 「じゃあ、今日のコンサートはここまで。最後に、この曲を。」

 ショパンの『別れの曲』だった。

 曲が終わってホルンの手入れをしていると、ユカと言う日本人女性が話しかけ て来た。

 「こんばんは、ユカって言います。日本人です。ナンシーさんは日本人の血が 流れているって聞いたんですけど、本当ですか」

 「ええ、本当よ。日本人とアメリカ人のハーフなの。日本の名前もあるのよ、菅原美枝子っていう。」

 「そうなんですか。私は陸上の競技に出てるんだけど、明日予選。ああ・・・ 今日、眠れそうにないんです」

 「眠れないとまともな成績を残せないって言う思い込みをなくす事ね」

 「眠れなくてもいい成績?無理よ、そんなの」

 「だから、そう思い込む事が眠れない原因なの」

 「よくわからないわ」

 「眠れなくてもいいんだ、自分はやる事はやったんだという自信を持てばいつ だって眠れるわ」

 「試して見るわ、ありがとう」

 でも、一九年後の二〇〇七年現在自分が眠れない事を理由にアルコールを頻繁に飲むよう になるとはこの時思いも寄らなかった。何しろ自分の命が狙われている のだか ら、眠れないのも無理はない。

 ユカはナンシーに礼を言うと去って行った。

 小さい頃からの射撃の練習・・・そしてホルンとの出会い。

 ユカが予選をしている頃、ナンシーは射撃場で次々に中央着弾を決めていた。 選手村に帰ってから、いくつかホルンのリクエストがあったが、明日が 決勝な のでコンサートはさすがに断った。

 夕方食事が終わった後、談話室にいるとユカが予選を通過した事を嬉々として 報告してきた。昨日、ナンシーからアドバイスを受けてぐっすり眠れた のだと 言う。

 「よかったね、ユカ」と彼女の手を取り自分の事のように喜ぶと、ユカは

 「ちゃんと取ってね、プラチナメダル。金メダルだけじゃダメだよ。六〇〇点取っ て、金メダルも取って、プラチナメダルも取ってね、ナンシー」と言った。

 「うん、プラチナメダルもちゃんと取るわ。ユカも自己ベスト出してね」

 「実は、今日の記録自己ベストだったんだ。でも、予選通過八位。決勝でどれ だけ記録が残せるかが課題ね。明後日、決勝よ。ナンシーも応援して ね」

 「ええ。明日、私の決勝よ。ユカも応援してね」

 二人は笑い合い別れを告げた。






目次
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レジデント

マグナム 闇に光る

第1章: 狙撃
第1章: (1) 夜の狭間
第1章: (2) 帰国
第1章: (3) 歓迎
第2章: 過去
第2章: (1) 生誕
第2章: (2) 地方予選
第2章: (3) オリンピック
第2章: (4) 選手村の休息
第2章: (5) 決勝
第2章: (6) 閉会式
第2章: (7) 帰郷
第3章: 卒業と就職
第3章: (1) 卒業
第3章: (2) 警察学校
第4章: 疑惑
第4章: (1) それた銃弾
第4章: (2) 手術












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