5 決勝
そして決勝の日がやって来た。この日ぐっすり寝たナンシーは十時二十分開始 の競技までどれだけ集中力を切らさず高めて行くか、それだけに賭け た。
九時十五分までは何となく読書。「ツァラトゥストラ」はあまりに内容が重い ので、談話室から拾って来た雑誌を読んだ。競技場へのバスの時間が近 づいた のでいつものようにホルンのマウスピースで集中した。同じバスにライバルのフ ランソワーズ・マヨールも乗っていた。
「ナンシー、がんばろうね」
「がんばりましょう」ナンシーは言った。
「私はソ連のナターシャ。今まではノーマークだったみたいだけど、表彰台を 狙うわ」英語で、ナターシャと名乗った女性は言った。
「お互いがんばりましょう」フランソワーズは明るい笑顔で答えたが、ナン シーは内心それどころではなかった。母が抱えている秘密はロシアの物で ロシ アから狙われていると聞いた。英語圏ではソビエトと言う名称はあまり用いられ ず、非公用的にはロシアと呼ばれていたので母のその秘密を探りに ロシアの工 作員が形を変えてナンシーに近づいて来たのではないかと思った。
決勝は試技順が決まっているので余計な心配をしないで済む分楽だった。ナ ターシャは三番目、ナンシーは七番目、フランソワーズは最後の八番目の 試技 順だった。
決勝試技に入り二人目までは五百五十点台の平凡な記録だった。ナターシャの 名前が呼ばれた。
「三番、ナターシャ・スルピンスキーさん、ソビエト連邦」
彼女はいきなり三連続中央着弾をした。四発目わずかに外したが続けて三発中 央着弾をした。八、九発目またわずかに外したが最後の弾を中央に決め た。そ れで第1セットを九十七点で終わった彼女は続けて九十八、九十六、九十七、九 十五、九十七点を叩き出した。
「只今のナターシャ・スルピンスキーさんの記録、五百八十点」
彼女の記録はしばらく塗り替えられる事はなかった。
六番目、日本の宮原真智子。二十八歳のママさん選手。第一セットで九十六点 出した彼女は、第二セットから第四セットまで、九十七点を揃えた。第 五セッ トと六セットは九十五点だった。
「只今の宮原真智子さんの記録、五百七十七点」
「七番、ナンシー・ホールズさん、アメリカ合衆国」
名前を呼ばれてセットに入った。銃を構えた。ロシアだろうがフランスだろう が関係なかった。自分のベストを尽くすだけである。
第一セット。いつもこれが緊張する。一発目。これを外したらフランソワーズ には勝てない。頭の中には何故かベートーベンの「交響曲第6番:田 園」の第 一楽章が穏やかに流れていた。
『そう・・・穏やかなのよ・・・心は穏やか。争いを忘れ、自分のベストを尽 くす!』
第一セット一〇〇点。
そして第二セットに入った。的がとても大きく見えた。心は中央に向かってい た。一発目から十発目まで中央に弾を揃えた。
第二セット一〇〇点。
次の第三セット。自分は的の一メートル先に立っていると『妄想』した。実際 的の中央に着弾するなど赤子の手をひねるも同然だった。しかし的と共 にナ ターシャの姿が大きく映し出されるように感じられた。
『私は負けないわ!ナターシャには、絶対!ロシアなんかには、絶対負けな い!母さんを苦しめる、ロシアになんて、負けないわ!』
少し基線がぶれたような気がした。『いけない、無になるのよ。風景に溶け込 むのよ。』
第三セット一〇〇点。
第四セット。ナンシーは風景に溶け込んでいた。無の境地。頭の中は「新世界 より」の旋律が流れていた。第四セットは無難にまとめて一〇〇点。
第五セット。ナンシーは宇宙の中を漂流していた。目の前に丸い悪いUFO が現 れた。彼女はそれを打ち続けた。一〇〇点。
第6セット。歓びの輪が彼女を包んだ。幾重にも重なる人々から、彼女へと合 唱で応援のメッセージが届けられた。一〇〇点。
「只今のナンシー・ホールズさんの記録、六〇〇点」アナウンスが流れた。拍 手が起こった。突然身体の力が抜け、崩れ落ちるようにベンチに座っ た。
夏の青空が広がっていた。急に夏の暑さを感じた。汗が一筋、首筋を流れ落ちた。
「八番、フランソワーズ・マヨールさん、フランス」
最初の一弾を外すように念じていた自分がナンシーは恥ずかしかった。彼女が セットに入るとナンシーは、すぐに『がんばって、フランソワーズ』と 念じ始 めた。フランソワーズは第1セットを無難に一〇〇点でまとめると、次々に中央 に着弾し、第二セットも第三セットも一〇〇点で切り抜けた。
第四セットから第六セットは、フランソワーズも時間をたっぷり使い、集中し たようだった。このセットも一〇〇点。
「只今のフランソワーズ・マヨールさんの記録、六〇〇点」
フランソワーズがベンチに帰ってくると、突然メダルの色が気になり始めた。
「ねえ、フランソワーズ、私のメダルの色はどうなるの?金?銀?」
「どうして銀だと思う?」
「だって、予選の時五百九十九点だったから」
「そうねえ・・・でも、安心して、あなたのメダルの色は・・・」
「私のメダルの色は?」
「プラチナメダル!」そこでフランソワーズは破顔一笑、二人は笑い転げた。
しばらくして真面目になって
「ねえ、フランソワーズ、真面目な話どうなの?どっち?」
「私達、親友よね、国境を越えた。第二次大戦前の日本の話なんだけど、一九 三六年のベルリンオリンピックの棒高跳びで西田修平氏と大江季雄氏が 銀メダ ルと銅メダルを取ったのだけど、帰国後お互いのメダルを切断して『友情のメダ ル』を作ったの。もしあなたが銀メダルでも、そうやって『友情 のメダル』を 作らない?」
「そうしようか?」
しばらくして表彰式があった。
「第三位、ナターシャ・スルピンスキーさん、ソビエト連邦。記録、五百八十 点」
「第二位、ナンシー・ホールズさん、アメリカ合衆国。記録、六〇〇点」
「第一位、フランソワーズ・マヨールさん、フランス。記録、六〇〇点。なお 第一位と第二位の決定は予選試技の記録を基にしました」
首に金メダルを掛けられるフランソワーズの晴れやかな笑顔。次にナンシーも 首に銀メダルを掛けられた。自然と涙が流れて落ちた。泣くまいと思っ ても 次々に押し寄せる涙。
「一番高い所に登らない?さあ、ナンシー、あなたも、ナターシャ」そうフラ ンソワーズが声を掛けたので三人は一位表彰台の上に登った。
フランス国歌が高々と演奏された。
選手村に帰ると、すぐにホルンを取り出し「星条旗よ永遠なれ」を自分の為に 演奏した。
その夕方も、「おめでとう」の言葉と共に寄せられるリクエストに応じてホル ンを演奏した。
夜九時になり自分の部屋に戻りホルンを片づけた。しばらくは眠れそうにな かったので「ツァラトゥストラ」をベッドに横になって読んだ。高揚感と 達成 感、そしてこれで終わったんだと言う安堵感が込み上げてきた。ふと時計を見る と十時半だった。本を十一時半まで読んで眠りに就く。
次の日はユカが決勝の日だった。応援しに競技場まで行こうか、とユカに尋ね ると「意識しちゃうからテレビで応援してて」と答えた。
陸上の競技をテレビで観ているとユカの出る八百メートル女子決勝が中継された。
『がんばって、ユカ』心の中で叫んだ。
ユカは第八コースで小さく両手を挙げた。それから、靴ひもを確かめると位置 に着いた。
号砲が鳴ると八人は一斉に走り出した。
「がんばれ、ユカ!」声に出して言った。しかし先頭とユカの間は開く一方 で、メダルは期待できなかった。
「走るのよ、ユカ。走れ!」ゴールすると同時に電光表示が出た。ユカは七位 だった。
「やったわ、ユカ!一つ順位を上げたわ」
続けて陸上競技を見たが、あまりユカの時気合いを入れすぎた所為かあまり気 の乗った観賞は出来なかった。数時間してユカが帰って来たので
「順位を一つ上げたわね」と言うと
「表彰台に登れないなら同じよ」
「何言ってるの?ユカ、オリンピックは勝つ事じゃなく参加する事に意義があ るのよ」
「ナンシーも金メダルじゃなければ嫌だって思ってたんでしょ」
「そう、その通りだわ。でも、私変わったの!またオリンピックに出るわ、そ して必ずプラチナメダルを取る!」そこで二人は笑い合った。
「でも、ユカ、順位を一つ上げる事に喜ばないと、金メダルは取れないわよ」
「そうね。でも、ナンシー、気が付いてないでしょ、実は・・・」
「実は?」
「今日の記録、百分の三秒自己ベストより上だったの!」
「自己ベスト更新ね!」
「でも、走った後完全に息が上がっちゃって。」
「そうだ!ユカもやらない?吹奏楽?」
「楽譜くらいは読めるけど。ピアノを習っていたから」
「吹奏楽をやると、集中力、肺活量、人気者、すべてが自分の物よ!ちょっと やってみない?ホルン」
「ホルンね?高いんでしょ?」
「安いのは千数百ドルから高いのは一万ドル以上するわ、ともかく音が出るか どうかだけやってみない?」
「肺活量を上げる為なら、やってみるわ」
二人はナンシーの部屋に入って行った。
「まず、これで音が出るかどうかやってみて。お手本ね」ナンシーはそう言う と、スペアのマウスピースをユカに渡し、自分はいつものバックのマウスピースで『ド』の音を出して見せた。
ユカはマウスピースを口に当てて思い切り吹いた。
『プリ・・・ビリ・・・パリパリ』
「めげないで、繰り返して」
『ブー・・・パオー・・・ブリ』
「もう少し、頑張って」
『プー・・・プー』
「ふふ、最初はそんなものかな。暇があったらこれの練習してみてね。さあ、本番よ、ホルンを吹いて見て」ナンシー はホルンを取り出し、ベルをクルクルっと取り付けると構え方をユカに 教え た。そして「何も押さえずにド、ミ、ソが出せれば立派な物よ。さあ、やってみ て」と彼女は言うとドミソミドと音を出して、ホルンをユカに渡し た。
「まず最初はロングトーン、長く一つの音を出してみて。ドーって」
最初出た音はナンシーにもわからない変な音だった。しかし試行錯誤を続けて いる内、ユカにも「ド」が出せた。
「わ、ナンシー、出せたわ!ドミソもやってみるわね」彼女は言うとドミソ、 と音を出した。しかし「ドミソミド」と音を出そうとしたが最後の方が変 な音に なった。
「それでね、地元のテレビ局の取材を受けて『私もホルンが欲しくなった』っ て言えば、すぐに手元にホルンが届くって仕組みよ」
「なんかずるいわ・・・いいわ、私自力で買う!これ、いくらするの?」
「一万ドル以上するの。友達と口論になって、アメリカ予選で六〇〇点出せば その友達が買うって言うから、その通りになって、最後は学校中で寄付 金を集 めて買ってくれたの」
「一万ドル?日本円で一〇〇万円以上ね・・・クラクラするわ」
「三千ドル位出すとスチューデントモデルをそこそこいいのが買えると思うけど」
「これ、何て言うホルン?」
「アレキサンダーの一〇三MBLって言うモデル。ほら、ケースが鰐革でしょ う?イミテーションみたいだけど。ともかく、もう少し練習しましょ う。ほ ら、これがホルンの指使い。運指表っていうとカッコいいかな。一が人さし指、 二が中指で三が薬指。ちなみに、書いてないけど四が親指。親指 を押すとBb管 になって、放すとF管。ホルンは本来はF管で発達してきた物なので、最初はF 管で練習する物だと教わったわ。Bb管は高い音程とか を出すのに使うの。レが 人さし指、ミが開放、ファが人さし指、ソが開放。さあ、ドレミファソファミレ ドを練習して!」
ユカは最初レやファを練習していたが、思い切って音階を演奏した。するとう まく音階が演奏できた。彼女は何回か音階を演奏すると「すごい!最初 の日に これだけできるなんて、私って才能あるのかなあ」
「そうかもね、才能あるかも」自分は最初の日にドミソミドと音が出せてその次に 聖者の行進を演奏した、などとは言い出せなかった。「そうだ、ユカ、 何か曲 をやって見ようか」
「うん、そうする。教えて!」ユカがそう答えたのでナンシーは「聖者の行 進」の楽譜を取り出した。
「これ簡単だからやってみて。指使いは今までやったのだけしか出てこないわ」
「でも、私、管楽器初めてだし・・・指使いを書き込んでもいい?」
「もちろんいいわ。その楽譜もユカに上げる。そうだわ、今ユカが使っている のはスペアのマウスピースだから、それも欲しければユカに上げてもい いわよ」
「本当?じゃあ、さっそく唇の形を練習しなくちゃ」
「唇の形、は普通は『アンブシャア』って言うのよ」そう答える内にユカは指 使いを次々に音符に書き込んで行った。
「意外と簡単かも知れない。ちょっと練習して見るね」ユカはそう言うと出だ しを何度か練習し出した。そして一コーラスを演奏しきった。するとド アを叩 く音がした。
「はい、どうぞ」
「なんだ、いつものナンシーかと思えば今日はユカがやっていたのか。どうり であまりうまくないと思った」顔見知りの若い男性選手だった。
「こら、ユカに失礼でしょ」
「ナンシー、だって私は今日初めてホルンを吹いたんだし」
「でも私と同じよ。ホルンを初めて持った日に音階と『聖者の行進』を吹けた んだから」
「え、ナンシーと同じ?本当?何年か後にはナンシーと同じプレイヤーになれ る?」
「少なくともホルンの、ね」
「僕もトランペットか何か持ってくれば良かった」
「今更言っても遅いわ」
そこでナンシーとユカは笑い合った。
「そうだ!ユカ、いい案があるわ」そこでナンシーは口をユカの耳元に近づけ て何か囁いた。