第四章 疑惑
1 それた銃弾
母芙美子の病室で考え事をしていたナンシー、すなわち菅原美枝子は、小林刑 事が声を掛けて来たので現実に引き戻された。
「すると、美枝子さん、つまりナンシー・ホールズさんはフランソワーズ・マ ヨールさんと昵懇の仲である、と言う訳ですな」
「はい、ええ」
「どのような仲だったのですか」
「(この人、もしかして何も知らないのだろうか)あの、一九八八年のソウ ル・オリンピックの時、フランソワーズが金メダルで、私が銀メダルだっ たん です」
「それは何の競技で?」
「(ああ、やっぱり何も知らないんだ)射撃競技です。フランソワーズは予 選・決勝を通じて全弾中央着弾、六〇〇点だったんです。私は予選が五九 九 点、決勝が六〇〇点だったんです。」
「その程度で優勝ですか?一〇〇〇点満点なんでしょ?」
「いえ、(もういやだ、もう説明したくない)六〇〇点満点です」
「どんな風に昵懇の仲だったのですか?」
「じっこん、って何ですか?小林刑事」
「え?何、と言われても」
「仲良かったですよ、何と言っても彼女の金メダルと私の銀メダルで『友情の メダル』作ったくらいだから」
「それは何ですか?」
「彼女の金メダルの半分と私の銀メダルの半分で合わせて一つのメダルを作っ たんです」
「それは、何故『友情のメダル』と言うんですか」
「(もう嫌だ、この人何もわかってないのね)だから、一九三六年のベルリン オリンピックの棒高跳びで西田修平氏と大江季雄氏が銀メダルと銅メダ ルを 取ったのだけど、帰国後お互いのメダルを切断して『友情のメダル』を作ったエ ピソードはご存じない?」
「一九三六年ベルリンオリンピック?そんなオリンピックありましたっけ?」
「(もう駄目)ちょっと失礼します」
ナンシーはちょっと病室の外に出た。何となくその気になり、エレベーター ホールの自動販売機でコーラを買った。コーラを一口飲むと、窓の外に眼 をや り夏の日差しに枯れてしまいそうなひまわりを見つけた。
『このひまわり、私みたいだわ、大輪の花を咲かさずに枯れてしまうのね……』
ナンシーは萎れかけた小さなひまわりを見てちょっと感傷的になった。何とな くミッシェル・メルドとの一件を思い出した。
北海道警察の女性警察官・・・何と言う名前だったか。ナターリア?だったか。そ う言えば、メルドはミッシェルではなくミヒァエルと言う名前だった と後で教 えられた。
名前を二つ持った人間たち。その中には自分も入っていた。でも、フランソ ワーズは違うかも知れない。
でも、何故母芙美子を狙撃しようとしたのか・・・何故銃弾は逸れたのか?フラン ソワーズともあろう者が外したのはどうしてなのか、考えれば考える 程わから なかった。
「あ、こちらにおいででしたか、主治医の飯塚先生がお呼びですが」制服の警 官がナンシーに声を掛けた。
「はい、すぐ参ります」
ナンシーが病室に戻ると飯塚医師は彼女に眼を遣り、こう話し掛けた。
「ナンシーさん、あなたのお母様の芙美子さんに命中した銃弾はすでに摘出し てあります・・・小林刑事、お願いします」
「これがその銃弾です」
「これは何口径ですか?」
「四十二口径です」
「そう、そうだわ!フランソワーズは四十二口径を使っていたっけ!母も狙撃 された相手はフランソワーズだと言っていたわ」
「そうです、刑事さん、フランソワーズに間違いありません。」
「お母さん、フランソワーズを見た事あったよね」
「なに言ってるの、ソウルオリンピックの時あなたともう一人の選手と、彼女 の顔は忘れないわ。それにあなた写真持っていたでしょう」
そう二人が言い合っていると飯塚医師は遮るように
「私にとっては真犯人が誰かはあまり重要でないのですが、お母様の傷につい て説明いたします。まず、一般的に銃弾が身体に命中しても、化膿や腐 敗は起 こりにくいとされています。まあ服や皮膚が汚れていれば別ですがね。何故かと 言うと、銃弾は発射時高熱になるためです。しかし銃弾が骨を砕 いたり、内臓 や脳を傷つけたりすると大変です。時には致命傷になる・・・ケネディ大統領の暗殺 の時の映像、ご記憶でしょうか? まあそれはそれとし て、芙美子さんの左足 に銃弾は命中した。左足の膝より下の、太い方の骨、脛骨(けいこつ)と言う骨 に命中したのです。このレントゲン写真をご覧下 さい、まだ摘出前の写真です が、骨を三等分して上の方から三分の一の所に銃弾は命中しています。そして、 こちらの方からこっちへ、骨折していま す。」
医師は左の方から右の方へ指を動かした。
「そして七月三一日、今朝方銃弾の摘出手術を行ないました。手術は成功、患 者の芙美子さんはこうして元気に病室にいらっしゃるわけです。現在朝 と夕方 に抗生物質の点滴と、維持液五〇〇ミリリットルの点滴を行なっています。
食事も今日夕方から流動食を始める予定です」
「食事って手術の後二、三日は出来ないのではないですか」
そう小林刑事が訊ねると飯塚医師は
「消化管、つまり胃とか腸なら手術後何日か食事を摂らせず、すなわち絶食に する事が多く、点滴でその場を凌ぐ場合も多いのですが、整形外科の手 術の場 合は消化管を手術した訳でないので手術当日麻酔の影響がなくなってから食事を して頂く事ができます。ただ、ケースバイケースですので、必 ず、と言う訳で はありません。」と言った。
「先生、あとどれくらいで歩けるようになるのですか」
芙美子が聞くと、飯塚医師は
「傷がうまく塞がってしまえば大丈夫ですが、万一化膿したりすると、時間が掛かります。うまく行った場合、二週間くらいで歩行訓練を始めます」
と答えた。
「お母さん、傷は痛む?」
「そりゃあ銃弾を受けた上に手術されたんだから、痛くない訳がないでしょう」
「あなたのご主人・・・リチャードは亡くなったのね・・・」
「 他人行儀の話し方はやめてくれない、お母さんにとったら義理の息子でしょう」
「あの、ミッシェル・メルドの一件、何故リチャードがいたか彼に聞いた?」
「えっ?」
「やっぱり話していないのね」
「どういう事なの?」
「申し訳ないけど他人のいる前では、はばかられるね」
「飯塚先生、刑事さんたちも申し訳ないけど席を外して頂けませんか?」ナンシーがそう言うと、二人を残して他の者たちは病室から出て行った。
「そもそも、あの事件があった後、私たちは連絡も取り合ってなかった・・・何故、あの事件の事を知っているの?お父さんも亡くなったあとだったし」
「マーティンの部下だった刑事さん、ドナルドって言うんだけど、その方が、教えてくれたのよ。その方は、マーティンが亡くなったあと、何かにつけ私の家に寄ってくれていたので、娘のあなたがメルドに襲われてご心配でしょうって」
「そう・・・なの」
「それに、何故リチャードがメルドを追っていたかわかってるの?」
「ええ・・・その事を何回か彼に聞いたけど、その度に彼は不機嫌になって、結局その事を聞きそびれてしまったの」
「メルドは、もう一歩でロシアの秘宝に手の届く所まで来ていた・・・あなたを誘拐する事にも成功したし。」
「それで?」
「リチャードは、アメリカ側から派遣されていた、ロシアの秘宝の捜査員だったのよ」
「ええっ??」
「だから、メルドがあなたを誘拐したと知って、あなたを手に入れて一気に核心に迫れると思ったらしいわ」
「そんな馬鹿な!」
「でも二人は恋に落ちた・・・私があなたたちの結婚に反対した理由、わかるでしょう?」
「仇同士、って事だったわけ・・・」
「リチャードが亡くなった今となっては、そんな事わかっても仕方なかったわね。」
「ねえ、それじゃあフランソワーズがお母さんを狙った理由も、知っているの?」
「あなたをおびき寄せるために決まっているじゃない」
「やっぱり?」
「山口警部がニューヨークのあなたを日本に連れて来る事まで計算済みに違いないわ、さっきの銃弾はナンシー、あなたを狙ったのよ」
「え?だって私を殺しちゃったら秘密はどうなるの?」
「全ての秘密はマイクロ・・・この部屋、盗聴されているかも知れないわ。話題を変えましょう。ナンシー、例のおできはいつ手術するんだい?」
「おでき?」
「ほら、脇の下にあるおできだよ。」
「(あっ、そうか!あそこにマイクロフィルムが埋まってるのね)ら・・・来週にでも取って貰おうかな」
「ちょっと疲れたね。休ませてもらうよ。見張り役の刑事さんを残して、もう帰りなさい。」
ナンシーは、部屋から半分体を差し出し、小林刑事を呼ぶと、もう帰る旨伝えた。
2 手術
次の日、どうするかかなり迷ってからホテルの電話で山口警部に電話した。もちろん携帯電話も持っていたのだが。極秘に手術を受けたい旨伝えると、こんな風に言われた。
『え?女性から男性に変わる手術とかかい?』
「もう、茶化さないでください。手術自体は簡単だと思うんですけど、詳しくはお会いしてお話ししたいのですが」
『今から私のオフィスに来るかい?警視庁の三階だが、受付に言っておくから。あ、そうか、君は特務室の室長だったな、何も問題ないよ。』
「じゃあ今から参りますので、よろしくお願いします」
ホテルの前からタクシーを拾い、警視庁で降りて三階の山口警部のオフィスに入ると、ちょうど彼はデスクで仕事中だった。
「山口さん、ここ安全ですか?」
「何言ってるんだ、ここ以上に安全な所なんて日本中のどこにもないぞ」
「いえ、盗聴器の事です。聞かれるとまずいので」
「そういうのはな、何気なく話すんだ。かしこまると却って怪しまれる」
「はい、実は私の脇の下に、おできがあるんですけど、そこにマイクロフィルムが埋まってるらしいんです。それに秘密が書かれているんですけど」
「どんな秘密だね?」
「ロシア皇帝の秘宝とか」
「私も噂は聞くが、な。そんな夢物語に付き合う暇はないね」ここで山口は大きく両手を広げ、美枝子の耳元で『外の喫茶店でコーヒーでも飲んでいてくれ。一〇分したら行く』と囁いた。
美枝子がその喫茶店「ぼん・じゅーる」でさほどおいしくもないコーヒーを飲んでいると山口が来て「いや、悪かったな、警部の自分が部屋の安全面に不安を持っていたのでは部下に示しが付かないからな、あ、すまない、コーヒーを」とウエイターに注文すると、山口はいやにそわそわしたそぶりで、「ここ、禁煙じゃないんだが、タバコ吸ってもいいか?」と聞いた。「何度も禁煙しようとしているのだけど」
彼はポケットからマールボロ・メンソールの箱を取り出すと一本抜き出し、火を付けた。「警視庁内はどこも禁煙でね。こういう店があると助かるよ」
「それで、山口さん、私右の脇の下におできがあるんですが、母が言うには二歳の時手術でマイクロを埋め込んだそうなんです。それで、そのマイクロは、ロシア皇帝の秘宝に関する秘密が書いてあるそうなんです。」
「マイクロ・・・フィルムだね」
「昔から、ほら、いつかミッシェル・メルドが私を誘拐したでしょう、その時も何人も人が殺されているし、そう言った事件が私のまわりで何度も起こっているんです。もういやなんです。けりを付けたいんです。」
「いつ・・・手術を受ける」
「私自身はいつでもいいです。でも、出来るだけ早く取ってしまいたいんです」
「わかった。じゃあ小林君にも来てもらおう・・・病院はやっぱり東京警察病院がいいか。ちょっと予約を取ろう」
彼は携帯電話を取り出すと、操作を加え、やがて電話をしだした。外科の医師に事情を話して予約を取ると、通話口を押さえ、「明後日だそうだ」と言い、電話を切った。少しして小林刑事にも電話をして、明後日の美枝子の身辺警備を依頼した。「もちろん私も警備する」と山口は言った。
二日後、指定された時間に東京警察病院に行くと、道の途中は制服の警察官でものものしいほどの警備だった。途中、検問があったが美枝子の「特務室室長」の証書を見せると敬礼され、通された。
一階の外来で迷っていると山口と小林が声を掛けて来て、不安な気持ちは一掃された。
外科外来の廊下で待っているとほどなく診察室に通され、問診などの後点滴され、ベッドの上に寝かされた。
それほど痛くもなく、時間もかからずマイクロフィルムは取り出された。
「これは、マイクロフィルムというよりカプセルみたいですな」小林は言った。
「今、血を洗ってきれいにしますのでちょっと触らないでください」
医師はそういうと水道の水でカプセルを洗った。
「中に入っている物に関しては私は関心がありませんので、こちらはお返しします。ビニール袋に入れておきますね」
美枝子はそのカプセルの入ったビニール袋を受け取った。
「それじゃあ、警視庁の暗号解読班の所に行くか」
そう言うと山口は、先頭を切って歩き始めた。