2 地方予選


 一方射撃の練習をしているとある時十発連続で的の真ん中に命中した。それを 見ていた父は、もう一度やってみるよう命じた。

 そこで的を新しくしてもう一度試してみると、何とまた十発連続で的の真ん中 に命中した。「お父さん、まぐれじゃないよ!」そう言ってもう一発引 き金を 引き絞った。すると再び的の中央に弾は命中した。

 父は、しばし茫然としていた・・・自分が見た物に信じられないと言う気持ち だった。リーボが走り寄って来て、「旦那、すごいですぜ、この射撃場 でも珍 しいや。十発連続で二回命中?この娘っ子が?」

 「最後は十一発連続で命中したよ」ナンシーがそう言うと、リーボは

 「十一発連続?オリンピックで世界記録で金メダルだ!」と叫んだ。

 「リーボ、そんなに喜んでもいられないんだ、この子がオリンピックで金メダ ルを取ったら、確実に命を狙われる」

 「なんでだ?お金が目当てか?金メダルを取った選手を殺せば確実に政府を敵 に回すぞ」

 「リーボ、そう言う問題じゃないんだ、私ら家族はある『秘密』を持っている んだよ」

 「どんな秘密だ?」

 「私もよくは知らないんだ・・・女房とナンシーは知ってるらしいんだがな」

 「お前さんが知らないでこの子の方が知ってる?なんだそりゃあ」

 「ともかく・・・ナンシーが十発連続で命中させた事は忘れてくれ」

 「何だと?アメリカに金メダルを!アメリカが優れた国だと示す為に、ナン シーをオリンピックに!」

 「ナンシー、行こう」

 その日夕方、ナンシーはホルンを練習していたが、気配で父が下で何かをして いるのがわかった。そこで練習の手を休めて下に降りて行き父の様子を 見る と、百枚ほどの射的用の的にマジックで何かを書き加えているのだった。

 「何してるの、父さん」

 「ああ、的の中心から一センチほど右下に×印を書いているんだ」

 「なぜ、そんな事を」

 「もうリーボの店には行かない。来週からは警察署内の射撃場で練習するん だ、この×印をめがけて撃つんだ。」

 その次の週から警察署内での練習が始まった。本来なら警察署内の射撃場は部 外者の立ち入りを禁止しているが、マーティンは一応部長でもあり、そ れにナ ンシーの腕前を一度見たら「もう来るな」などとは絶対に言えなかった。

 しかし、彼らが右下にかかれた×印をめがけて弾を命中させ始めると射撃場内 の雰囲気はがらっと変わった。

 「マーティン、なんで的の中央を狙わせない」

 「精神力を鍛えさせているのさ、的の中央を狙うのでは誰でもできる、そこで 精神的につらい『的を外す』のをわざとさせているんだよ」

 世は一九八八年ソウルオリンピックの予選が始まり、ナンシーをぜひピストル 競技で出場させようと言う気運が高まった。

 そこでロスアンジェルス地区の第一次予選に参加した。「八発だけ的の中央に 命中させるんだ。六〇〇点なんか取るんじゃない。五三〇点台でいい」 と言う 父の命令に従い、八発命中させ残りは全て右下一センチの部分に集中させた。文 句なく優勝。

 カリフォルニア州地区の最終予選に優待された。この頃、忙しくてなかなかホ ルンを吹けなかったが、マウスピースをポケットに忍ばせて、移動中の 時や精 神力を集中させる時に吹いて、感覚を掴んだ。

 「お父さん、今度はどうやる?」

 「好きにやりなさい」

 「じゃあ、金メダル取っていいのね!じゃあホルストの惑星、Mercury (水 星)ね」

 そうナンシーは言い残すと自分の部屋で惑星の練習を始めた。

 すぐにカリフォルニア州の最終予選の日はやって来た。

 ナンシーは考えに考え抜いた・・・自分に悔いを残さず、かつ目立たない事。 目立てば『組織』に狙われる。

 ホルンのマウスピースをくわえて音を出していると、州大会で顔見知りになっ た男性選手が声を掛けてきて

 「やあ、それトランペットのマウスピースかい?僕、少しだけどトランペット ができるんだ」

 「ふふふ、実はね、ホルンなの」

 「え、ホルン出来るんだ」

 「この前、ラベルの『ボレロ』やったわ」

 「すごいじゃないか!」

 「真剣に音楽の方面に進もうかと考えた事もあったの」

 「僕、音楽の才能はないけど射撃はすごいんだ」

 「だといいんだけど」

 大会は、最後の出番が優待選手のナンシーだったのでそれまで精神状態を保っ ているのが大変だった。

 ナンシーが出るまでの最高記録は五四〇点の記録だった。

 「やるわ」

 ナンシーの名前が呼ばれると意気が上がった。力が湧いて来た。

 それまで五シリーズで一回ずつわざと外し四九〇点ほどだった。あとは無難に まとめれば優勝か準優勝は間違いない。的の中央を狙い、一度大きく息 を吸い 眼を閉じた。一度息を吐き切り眼を開けた。そしてもう一度息を吸い、吐きなが ら引き金を引き絞った。弾は的の中央に当たった。そして弾は連 続して八度、 的の中央に当たった。『もうこれでいいのよ』自分自身でそう思った。

 そして一度右下に狙った。狙った所に当たった。もう一度。もう一度だけ。涙 で標的が見えなかった。時間経過が、あと3秒で弾を撃たなければなら ないと 告げていた。

 『私は撃つ!あきらめない!』

 引き金を引き絞った。弾は的の中央に当たった。ナンシーの点数は五八八点 だった。

 次の日のローカル新聞やローカルテレビでは、ソウルオリンピックの有望選手 現るとしてナンシーの事を記事にしていた。ただ、大抵の記事は「まぐ れで手 にした栄冠」等と言う口さがない物だった。

 その記事が書いてある新聞を見て父は、喜んでいいのか悲しんでいいのかわか らないと言った。

 「どうして?優勝したんだから喜んでよ」とナンシーが言うと、父は「五八八 点だぞ、六〇〇点満点で。奇跡と言わずしてもし自力と言うなら、それ は」

 「『組織』に見つかる?」

 「そして、この新聞が書いているように本当はまぐれだと言うのに対しては、 本当に自力なんだから、と抗議したくなる」そして続けてこう言った。 「そし て、本当の事がわかるのは六月の全米選手権だ」

 「絶対勝つわ」ナンシーはそう言った。

 「優勝はするなよ、準優勝でオリンピックに行くんだ」

 「何でいつもそうなるの、全力でやっちゃだめなの?どうして?」

 「『組織《ツェレ》』に狙われるんだ」

 「いっその事オリンピックで金メダル取っちゃえばいいんだわ、全弾を的中央 に命中、で」

 「殺されてもいいのか」

 「人間いつかは死ぬのよ、やりたい事やって死ぬのも人生、やらずに死ぬのも 人生よ、私は金メダルが取りたい!」

 「そうか・・・そこまで言うか。まあいい、やりなさい」

 それからも辛い練習が待っていた。呼吸法、そして指立て伏せ、ウエイトト レーニング。勿論射撃の練習。学校でもノートを取っている時以外は的を 考え て中央に弾を当てるイメージトレーニングをした。

 「ナンシー、オリンピックに出られそうなの?」エリザベスと言う友人が聞いた。

 「モチ、任せて、金メダル取るから」

 「大ボラもここまで来るとすごいわ。これまでに高校生で金メダル取った人、 何人いると思う?いくら地方大会で五八八点取ったか知らないけど、ま ぐれっ て事もあるよね。」

 「残念でした、実力よ」

 「運も実力の内?」

 「私、わざと六〇〇点取らなかったのよ」

 「どういう意味?」

 「取ろうと思ったら六〇〇点取れた」

 「妄想だわ!幻覚だわ!医者に診てもらわないといけないわ」

 「じゃあ、もし全米選手権で六〇〇点取ったらどうする?」

 「取れなかったらどうする?」

 「取れたら、ホルン買ってもらおうか」

 「それくらいたやすいご用だ、取れなかったら『私は嘘つきです』って看板を 背負って学校中を歩くの」

 「本当にいいの?アレキサンダーの一〇三って言うホルンだけど」

 「じゃあこの誓約書にサインして」

 「いいわよ」

 その日の午後音楽室でホルンの練習をしていると(ホルンの練習も呼吸法の練 習だから射撃の練習に繋がった)先ほど誓約書を交わしたエリザベス と、音楽 の先生がやってきた。

 「ナンシー君、これは本気かね?全米選手権で六〇〇点取ったらエリザベス君 がホルンを買うって?」

 「エリザベスさんが最初言い出したんですよ、あんなのは絶対実力じゃない、 まぐれだって。だから私は今度は本当の実力を見せてやるって。 私・・・くや しいんです」ナンシーは涙を流していた。「先生、私あの時わざと的を外したん ですよ。当てようと思えば当てられたんです!」

 「エリザベス君、君も知っているのかね、アレキサンダーの一〇三は一万ドル もするんだよ」

 「先生、先生も本当にナンシーさんの言うことを信じているのですか、高校生 で六〇〇点取るなんて!無理に決まっているわ、私は一万ドルも用意し なくて いいの、ただ『私は嘘つきです』っていう看板を用意すればいいだけなんです。」

 「私は嘘つきじゃありません!」

 「エリザベス君、ナンシー君、意地の張り合いはそれくらいにしたまえ、私は 本当にどうなっても知らないぞ」

 「先生に責任はありませんから」エリザベスがそう言った。

 「純粋に二人の友情の問題だもの、ね」ナンシーはそう言った。

 自宅に帰ってその事を両親に報告すると、二人そろってあきれかえった。

 「お前は『私は嘘つきです』っていう看板を背負って歩く事になるんだぞ!死 にたくなければな。『組織《ツェレ》』に目を付けられたらどうなると思う?」父 はそう 言った。

 「だからってこそこそ一生隠れて過ごせって言うわけ?オリンピックの金メダ ルも、アレキサンダーのホルンもあきらめて?」

 そこで何故か父はそこで母フミコの顔を見た。フミコは首を横に振った。

 「好きにやりなさい・・・お前の人生だ、今現在やりたい事を選ぶ事が結局将 来もやりたい事を選ぶ事ではないといくら言ってもわからないだろ う・・・も し今度の大会で六十連発ができなくても私のポケットマネーで何だっけ?あ、そ うかアレキサンダーの、ホルンを買ってやるよ」

 「え?本当?でも一〇三って一万ドルもするのよ」

 「悪い事は言わない。『組織』に狙われたくなければ外すんだ。」

 それからは父の声に従うか自分の声に従うかの葛藤が続いた。しかし毎日「六 〇〇点」は平気で出来たし実力はあると思っていた。

 全米選手権を一週間後に控えた日、気分転換にショスタコビッチ第五交響曲 『革命』のサビを練習した。

 「それ何て言う曲だっけ?」ナンシーの部屋に入って来た母フミコが聞いたの で教えると「随分と難しい作曲家だねえ。そんなショッタコとか言う作 曲家、 いたのかい」

 「ショスタコビッチよ、母さん。母さんも昔サキソフォンやっていたんでしょ」

 「私はジャズばっかりだったからね。クラシックはちんぷんかんぷん」

 「押し入れの奥にアルト・サックスあったのこの前見つけちゃった。ねえ、一 緒に曲やろうよ」

 「ダメだよ、もう二十年もやっていないもの」

 「『昔取った杵柄』って日本の諺、誰教えてくれたんだっけ?日本語でも言え たでしょ。」

 「いくらおだててもダメだよ、息が続かないもの」

 「今度サックスをやってみようかな、家にあってほおって置かれるの可哀想だ もの」

 「ショスタコビッチってロシア人だよね?ナンシー、あなたよくお聞き、あな たはショスタコビッチと同じなんだよ」

 「何が同じなの?」

 「あなたはロ・・・ごめんなさい、言えないわ」フミコは涙を流した。母が部 屋を出て行くと、ナンシーは何が起きたのか全くわからなかった。母の 涙の意 味。ロ?ショスタコビッチと同じ?しばらくするとアルトサックスの音が聞こ え、音階を練習すると少しして音楽を演奏し始めた。「ロシアより 愛を込め て」だった。『ロシアより愛を込めて?』何それ?何故二〇年の禁を破って母が 演奏したのがそれだったのか、わからなかった。

 わかろうともしなかった。例え何かわかってもどうしようもなかった。

 「お母さん、アルトサックスうまい」

 しばらくすると母が部屋に入って来た。

 「ねえ、母さん、何で『ロシアより愛を込めて』なんて演奏したの?」

 「ナンシー、私はね、ロシアの大きな秘密を握っているのさ。それで『組織《ツェレ》』 になんか狙われている訳。お前の身体にはその鍵が埋め込まれているっ て寸法さ」

 「何訳のわからない事言っているの?私はサイボーグ?私の身体に埋め込まれ ている?そんな馬鹿な」

 「本当なんだよ、お前が二歳の時、身体に埋め込んだのさ、手術で」

 「どこに?」

 「それだけは勘弁しておくれ、お前はその秘密を知っちゃあならないんだ」

 母は涙を隠すように部屋を出て行った。ナンシーは母の涙の意味、言葉の意味 を探ったがわからなかった。

 そしてあっと言う間に大会の日が来た。

 『落ち着け・・・落ち着くんだ、ナンシー。自分の思う通りにやればいいの よ。的の中央を狙って、引き金を引けばいいのよ』

 高校生の出場と言う事であまり期待されていなかったせいか、大会の試技に入 る前にはインタビューは地元ロスアンジェルスの新聞社一社だけだっ た。

 「友達と賭けをしているんです、六〇〇点取れるかどうか」

 「今まで誰も記録していないですからねえ」

 「え、そうなんですか」

 「た、多分・・・」

 「私、今まで何度も記録しているんですよ」

 「ま、まさか」

 「友達もそう言って疑っているんです。私が嘘つきだって」

 「がんばって下さい・・・」

 試技の順番は十人中三番目だった。「お、 ラッキー、ナンバー三じゃん」

 ナンシーの順番が回ってくるまでの記録は五二〇点から五四〇点だった。

 それは突然ひらめいた。六〇〇点取ってそれが記録に残らない、素晴らしい方 法だった。記録に残らなければ「組織」にも狙われない。

 それが余りにも素晴らしい方法だったので、ちょっとドキドキした。

 名前がコールされ、試技の準備に取り掛かった。

 『行くわよ・・・』

 引き金を引き絞った。的の中央に命中。引き続いて全部で十発、命中させた。

 そして第二セット。全て命中。第三セットから第五セットも命中させた。そし て第六セット。時間を十分に残した。全ての銃弾を命中させた。さて、 これか らだった。予備の弾倉を装填し、再び引き金を引いた。記録などどうでも良かっ たが全て本気を出した。

 「ナンシー選手、試技は終了です、発射を止めて下さい」そう言われ再び予備 の弾倉を装填、全ての弾を命中させた。

 「ナンシー選手、試技回数オーバー及び係員の制止を無視したため失格」

 失格になって表彰はないので、そのまま帰ろうとするとABCテレビのキャス ターのラリーと言う男に呼び止められた。

 「ナンシーさん、すごい記録ですよ、全世界初じゃないですか?八〇発連続中 央着弾、ちょっと信じられないですがどうですか」

 「え?記録?私失格でしょ?記録も残らないはず」

 「ピストル協会がどう言うかは別ですがね、マスコミが黙ってないですよ、ナ ンシーさん、これでソウルオリンピック金メダル候補堂々の第一位だ」

 「私・・・失格・・・」

 「失格でも何でも、画像が残ってますからね、圧倒的に注目されますよ」

 「注目される?」

 「多分、このニュースは、全世界の主立った国で放送されますよ」

 「そんなばかな!」

 「あなた、金メダル取りたくないんですか?」

 「それは取りたいわ、でも」

 「でも何です?」

 「私にもわからなくて」

 「これ、今夜のスポーツニュースのトップで行きますからね」

 「・・・」

 「いくつから射撃の練習を?」

 「多分七つの時から」

 「お父さんが警察官、ですね。目標は?」

 「ずばり、父です。あとホルンのいい奴。実はホルンが特技なんです。トラン ペットも出来ますけど」

 「お母さんが日本人、ですね。」

 「ニホンゴ、ペラペラデス」

 「行きたい世界の街はどこ?」

 「そんなの聞くんですか?ソウルに決まっているじゃないですか」

 「ホルンがお得意と聞きましたが、お得意の曲は?」

 「そうね、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』かしら?ホルンのマウスピースい つでも持ってるからお見せしましょうか?ほら、これ。バックの十番っ て言う マウスピース。」

 「さすがですねえ」

 「後はアレキサンダーの一〇三って言うホルンを手に入れるだけ」

 「ソウルの金メダル、期待してますよ。」

 「でも私は失格でしょ、行けないと思うけど」

 「明日になればわかりますって」

 「これ、本当に放送されるんですか?」

 「今の部分はカットかも知れませんが」

 ナンシーは笑った。笑うのは本当に久しぶりかも知れなかった。

 ホテルの部屋でマウスピースで練習していると、電話が掛かってきた。

 『NBC のスポーツニュース担当のランドルフと申しますが、一言コメント頂け ませんか』

 「私は失格よ、失格。それ以外はノーコメント。」

 電話を切った。

 電話を切るとすぐに次の電話が掛かって来た。

 『ニューヨークタイムズのスポーツ担当のリナロと申しますが、素晴らしい記 録を出された今のご心境を』

 「私は失格よ!もう掛けて来ないで」

 そう言うとナンシーは電話を一度切り、受話器を外して置いた。

 三十分ほどするとドアをノックする音があった。

 「ナンシー・ホールズ様ですね。ホテルのフロント宛てにマーティン・ホール ズ様から伝言です。自宅に電話して欲しいと言う事です」

 「わかりました・・・」

 自宅の電話番号を廻すと、ほどなくフミコが出た。

 『ああ、ナンシー、さっき地元の新聞社から電話があってね。ナンシーが前人 未到の快挙を成し遂げたって言うから、詳しく聞いたんだけど、ナン シー・・・なんて事したんだい?八〇発連続中央着弾なんて神業じゃないか。狙 われるよ』

 「嘘つきよりはましよ。それに、記録には残ってないはずよ、だって失格だもの」

 『馬鹿ね、さっきからテレビでどこのチャンネルもその話で持ち切りだよ、天 才射撃手の少女現るってね。ソウルオリンピックの金メダルはもう間違 いな いって』

 「私、だって失格だもの!」

 『さっきアメリカオリンピック協議会の理事とか言う人から電話があってね、 来週から合宿に参加してくれないかって。返事はすぐには出来ないって 言った んだけど、どうするんだい?』

 「電話番号聞いた?私電話するわ」

 時計を見ると夜の七時半だった。お腹が空いていた。電話は食事が済んでから にしようと思った。

 レストランで食事を食べているとウェイターが「ナンシー・ホールズ様ですよ ね?」と聞いてくる。

 そうです、と即答すると紙とサインペンを取り出し、「ぜひサインを」とせが んだ。

 あまり深く考えずに「Nancy Halls」とサインすると、彼は帰って行った。し ばらくして別のウェイターが紙とサインペンを持って来た。切りがないとすぐ判 断し、「プライベートなの で済みませんがこれからはお断りします」

 食事を食べ会計を済ませ、部屋でしばらく過ごしていると、電話しなければな らない事を思い出し、電話番号を廻した。

 『アメリカオリンピック協議会事務局ですが、本日の受付は終わりました。受 付は平日の午前九時から午後五時までです。お電話ありがとうございま した』 と言うテープの声が流れ、電話は切れた。

 しばらく考え、自宅に電話した。すると父が電話に出た。

 「ああ、お父さん、アメリカオリンピック協議会に電話したんだけど時間外で 受付してないの。もし自宅に電話があったらホテルに電話するように 言ってく れる?」

 『ああ、分かった』

 電話を切ると、フロントに、マーティン・ホールズとフミコ・ホールズ、そし てアメリカオリンピック協議会からの電話以外は取り次がないで欲しい と伝えた。

 時計は八時半近かった。まだ寝るには早かった。部屋の中のテレビを付ける と、ニュースをやっていた。

 『・・・ソビエトの冷戦時代に於ける核開発問題は共産圏諸国全体での核開発 へと問題が広がっておりどこかの国がボタンを押せば地球は消えてなく なるか も知れないと言う不安を拡大しています・・・CMに続いてはスポーツニュース です』

 ナンシーは、冷蔵庫の中を覗き込んだ。コーラを一缶取った。プルタブを開 け、一口飲んだ。

 『スポーツニュース、まずトップは天才射撃手の女子高校生現る、と言う ニュースです。今日行われた射撃の全米選手権でとんでもない記録を出した 女 子高校生が出ました。女子高校生の名前は、ナンシー・ホールズさん、十七歳の ロスアンジェルスの高校生です。彼女は、一回の試技は十発で、それが六セット、全部で六〇発で一回の試技は終わりとなっているので すが、何と八〇発連続で的の中央に当てると言うまさに離れ業をやってのけまし た。試技回数オーバーと、係員の制止を聞かずに試技を続けた と言う事で、彼 女は失格になってしまったのですが、レイノルズさんどうですか』

 『はい、試技の全部の弾を的の中央に当てるのでさえ難しいんですが、それが 八〇発ですからね、もう離れ業と言うより神業です』

 『彼女は、試技が終わると失格になったと言う事で早々に競技場を後にした、 と言う事でナンシーさんは、記録について聞かれると自分は失格になっ たのだ から関係がないと言うようなコメントを残したようです。』

 そうだ、ABCはこのニュースをやっているだろうか?

 『行きたい世界の街はどこ?』

 『そんなの聞くんですか?ソウルに決まっているじゃないですか』

 『ホルンがお得意と聞きましたが、お得意の曲は?』

 『そうね、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』かしら?ホルンのマウスピースい つでも持ってるからお見せしましょうか?ほら、これ。バックの十番っ て言う マウスピース。』

 『さすがですねえ』

 『後はアレキサンダーって言うホルンを手に入れるだけ』

 『ソウルの金メダル、期待してますよ。』

 『でも私は失格でしょ、行けないと思うけど』

 少し引きつった笑いの自分が映っていた。 ナンシーは、最近また読み始めた 『ツァラトゥストラかく語りき』を読む事にした。テレビの電源は消し た。ど このチャンネルでも同じような事をやっているのだろう。ベッドに、服も脱がず にごろりと寝た。枕元にある蛍光灯の電源を入れ、本を開いた。

 『きみの自己はきみの自我とその誇らしげな跳躍とを嘲笑する。「思想のこう いった跳躍や飛躍は、わたしにとって何であるのか?」と自己はみずか らに言 う。「私の目的への一つの迂路だ。わたしは自我の手引紐であり、また自我の諸 概念を示唆する者である。」』(ニーチェ全集9、ちくま学芸文 庫・吉沢伝三 郎訳、六十二ページ)

 私は飛んだわ・・・私の目的の為に。何故・・・ホルンの為?私は私の跳躍を 笑っているのかしら?

 いいえ、決して笑ってなどいない、誇っているわ、正しかったのよ。あとはオ リンピックでの金メダルだわ。

 ニーチェを何ページか読んだ後、眠りに就いた。午後十一時を廻っていた。

 次の日ロスアンジェルスの自宅に午後二時頃着いて遅めの昼食を摂っている と、電話が鳴って母が出た。

 「はい・・・おりますが。ナンシー、オリンピック協議会よ」

 母は手で受話器を塞いでそうナンシーに呼びかけた。

 「もしもし・・・ナンシー・ホールズですが」

 『オリンピック協議会の事務部長のライアン・ニールと申します。全米選手権 で素晴らしい記録を出した事、大変喜ばしく思っております』

 「記録?私は失格になったのだから記録も残らないはずでしょう?」

 『あ、いえ、そういう意味ではなく、前人未到の八〇連続中央着弾の事で。』

 「あれは、ただのまぐれです。」

 『それはご謙遜かと。』

 「みんな言うもの。実力で八〇発連続で的の中央に弾が当てられるはずないっ て。嘘つきだって。」

 『でも、あなたは証明された』

 「どっちが正しいの?みんなが言うのと、自分が証明するのと、どっちが正し いの?」

 『あなたが正しい』

 「私は神でもなければ超人でもないし、スーパーマンやウルトラマンでもない わ、ただの女子高校生よ!ソウルで金メダル取れるとは限らないわ」

 『その為の合宿に、参加して頂きたいと理事長が希望されています』

 「一つだけ条件があるわ」

 『何ですか?』

 「ホルン、持って行ってもいいですか」

 『勿論ですとも』

 「金メダル、取れないわ」

 『そんな気弱な』

 「私が取るのは、プラチナメダル!ははは、このジョーク受ける?」

 『面白いですね』

 合宿が始まるまでの何日間か、ホルンで『トランペット吹きの休日』を練習し たりお得意のショスタコビッチの革命や、また指立て伏せ、ウエイトト レーニ ングに呼吸法、射撃場通いと忙しい日々を過ごした。学校に行くのは免除されて いたが、ある時音楽教師に呼び出されて学校に行った。教師に言 われたように 音楽室に行くと、そこには教師とエリザベスがいた。

 「ごめんなさい、ナンシー。嘘つき呼ばわりして。今やあなたはアメリカ中の ヒロインだわ。私が約束した事、覚えてるわよね、ホルンの事・・・で も私の 家、そんなに裕福じゃないの。でもあなたがアレキサンダーのホルンを欲しがっ ているってニュースで流れたから、ここの学校の生徒の両親もみ んなそれを 知って」エリザベスがそう言った。

 「それでね、ナンシー君、エリザベス君が必死に募金を集めて、何と一万五千 ドル集まったんだよ!それで、これだ。」

 教師は隠しておいた鞄を前に出した。噂に聞いた鰐皮の鞄だ。

 「アレキサンダーのホルン、一〇三MBLだ!これ以上のホルンはないぞ。あ と残ったお金は生徒皆で決めて、君の合宿費用に充てる事に決めた!こ の発案 はエリザベス君が中心だったんだ。がんばって金メダル取ってくれたまえ」

 見るとエリザベスは泣いていた。「ナンシー、本当にごめんね、金メダル取っ て!」

 「ええと、ええと、でも金メダルは取れないんだ。私の取るのはプラチナメダ ル!」

 「ぷっ、なにそれ?」

 二人は手を取り合って笑い合った。エリザベスの涙はすっかり乾いていた。

 教師は、後ろを向いてこっそり涙を拭いた。

 それからしばらく経って、オリンピックの強化合宿が始まった。ナンシーに とっては、新しい仲間との触れ合いがうれしかった。身体の機能強化と言 う面 では、目新しい訓練を取り入れている人もあったが、ナンシーにとっては、ホル ンの腕前を皆の前で披露できる方がうれしかった。

 ある夕方テレビを見ているとあるニュースが入って来た。

 『射撃の記録更新のニュースです。アメリカでは少し前ナンシー・ホールズさ んによって未公認ではあるものの、八〇発連続中央着弾と言う記録が打 ち立て られましたが、公認記録として六〇発連続中央着弾、六〇〇点と言う記録がフラ ンスで打ち立てられました。記録を作ったのはフランソワーズ・ マヨールさん 二十五歳で、公認記録としては前人未到の記録です。なお、フランソワーズさん は記録を作った後フランス選手権大会の許可を得てナン シー・ホールズさんに よって作られた八〇発連続中央着弾に挑戦しましたが、七十一発目までで失敗しまし た。』

 「へー、すごいじゃんナンシー、フランソワーズさんと言う人も出来なかった 記録を打ち立てたんだ」マリアと言う陸上の選手がそう言った。

 「全然すごくないわ、私は失格だったのにその人は公認記録だもの、フランソ ワーズの方がすごいわ」

 しかし、そのニュースを聞いてからと言う物、心が穏やかではなかった。記録 への執着心があった。自尊心があった。

 的の中央を狙っても外す事が多くなった。これではいけないと思い集中しても ダメだった。ふと父に教えられた方法を思い出した。的の右下一センチ を狙う 方法だった。自分で×を書き込み、打ち込んだ。的の中央を狙うのに比べ、心が 楽だった。

 気が付くと八〇発連続で×に着弾していた。あまりに集中しすぎておかしくな りそうだった。こういう時はホルンを吹くに限る。

 射撃の用意を片づけ、部屋に帰ってホルンを組み立て、ドヴォルザークの「新 世界より」の最も有名な旋律を演奏した。この部分はラルゴで、有名な 割に非 常に簡単で、ナンシーは気に入っていた。

 するとマリアが入って来て、ナンシーのホルンの見事さと自分が音楽の才能が ない事を機関銃のようにまくしたてると、リクエストをしてもいいかと 言う。

 「リクエスト?知ってる曲か、楽譜があれば多分大丈夫よ」とナンシーが答えると

 「じゃあ『アルハンブラの思い出』は?」

 「あれはギターの曲よ、ビブラートをうまく効かせて演奏するかしないとホル ンではうまくできないの」

 「ふふ、いじわるで言ったのよ、じゃあ『イエスタデイ』お願い」

 「それならお易いご用よ、そこで聞いてて」ナンシーはそう言うと『イエスタ デイ』を演奏した。これ位有名な曲だと暗譜の苦手なナンシーでも覚え てい た。途中一ヶ所指使いを間違えて#を付け損ねたが、マリアは気付かなかったら しい。

 「エヘ、指使い間違えちゃった」

 「もう一曲、何かお願いよ」

 「何でもいい?」

 「悲しい曲以外なら」

 「じゃあ、『星に願いを』ね。」

 元々トランペットのレパートリーだったが、そう難しい曲ではなかった。彼女 が『星に願いを』を演奏していると、一人二人と強化合宿の選手が集 まってきた。

 「またやってるね」

 「いつ聞いてもいい音だねえ」

 彼らは口々に彼女のホルンの腕前を誉めた。そうなるともう即席の演奏会だった。

 「じゃあ、次『聖者の行進』行きます!」

 ホルンを初めて吹いた時演奏した曲。あの頃はまさかオリンピックの強化合宿 でこの曲を吹こうとは思わなかった。トランペットを始めた頃。それは また射 撃を始めた頃の思い出と重なるのだった。

 母と父が自分に託した夢とは何だったのか。何故父は射撃を始めさせたのか。 何故両親はトランペットを始めさせたのか。自分は何故ホルンを選んだ のか。

 『聖者の行進』の二コーラス目でわざと半音上げて演奏した。皆が少しざわつ いた。

 三コーラス目は元に戻したが、演奏を終わるとマリアが聞いてきた。

 「途中で楽器の調子悪くなったの?音色がおかしかったけど」

 「わざとやったの、半音上げて演奏したのよ」

 「なーんだ、そうだったの」

 「次、最後の曲にします!『諸人こぞりて』です」

 『諸人こぞりて』は勿論宗教曲だった。祈り、祈りの心を表現した。何故人は 祈るのか?神の為に?そもそも神はいるのか。ニーチェは「神は死ん だ」と書 いたが。人間は神を殺せない。神は人間を殺すが。何の為の人生、神の為か?自 分の為か?他人の為か?そのいずれもが答えであり、いずれも が間違いであ る。人間の人生とは、全てを再定義する為の旅である。宇宙を、そして自分の人 生すらも再定義する為の。

 演奏を終わると拍手が起こった。見ると、そこには十人ほどの選手が集まっていた。

 「みんな、ありがとう!」






目次
Xcode 11 の新機能
レジデント

マグナム 闇に光る

第1章: 狙撃
第1章: (1) 夜の狭間
第1章: (2) 帰国
第1章: (3) 歓迎
第2章: 過去
第2章: (1) 生誕
第2章: (2) 地方予選
第2章: (3) オリンピック
第2章: (4) 選手村の休息
第2章: (5) 決勝
第2章: (6) 閉会式
第2章: (7) 帰郷
第3章: 卒業と就職
第3章: (1) 卒業
第3章: (2) 警察学校
第4章: 疑惑
第4章: (1) それた銃弾
第4章: (2) 手術












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ












トップへ